続:拡張型心筋症による父の再入院ー死去

令和元年11月12日午後10時23分、父が他界しました。

最後は眠るように息を引き取りました。多臓器不全でした。

午後8時30分くらいになったあたりでしょうか、仕事中の母から電話がかかってきて、病院からすぐに来てほしいと連絡があったと言われました。家にいた僕と弟は、急いでタクシーに乗り込み、駆けつけると、ICUの父の病室の前には看護師さんが3,4人並んでいて、すごく悲しい表情をしていました。ICUの病室は二重のドアになっていて、そのドアには大きなガラスが埋め込まれているのですが、つまりはその二重のドアのガラスから、父と、そして父を囲むようにお医者さんと看護師さんが待機しているのが見えました。部屋の中央には、心臓の鼓動や血圧を指し示す医療用のモニターパネルが設置されており、そこに書かれている数値から大体の父の状況が把握できました。血圧は一桁で、HR(脈拍)の数値は0と表示されており、つまりはそれは――――――心臓が止まっていました。それでもまだ、微弱な電気信号がみられ、横ばいの緑色の線に、少しだけ心臓が動いた時に近いエコーが表示されていました。

父の病室には母、お医者さん2人、看護師さん1人がおり、そこに僕と弟が加わりました。既に駆けつけていた、父の右手をずっと握っていた母が、心臓がほぼ止まっているから、これが本当の最後で、言いたいことは全部言いなさい、と言われました。身体はまだ温かく、心臓が停止して時間が経っていないことが分かりました。僕は父の左手を握り、顔を見ながら、いままで世話になったことや、ありがとう、と言葉をかけたのは覚えているのですが、正直頭が混乱していて、何を言ったのかは正確には思い出せません。ただ、僕がまだ公認会計士を目指して志半ばであるということ、そして最後まで頑張るというような事を言ったように記憶しています。(僕が父に言葉をかけているその横で、母が僕が言うべきことを後ろからブツブツと吹き込んできて、船場吉兆の女将かよ!とツッコミたくもなったのですが)

父の心臓の拍動が完全に停止するまでの10分くらいの間、僕と母と、弟と家族三人で父を見守りました。その後、父の心臓は完全に停止し、お医者さんによって死亡が確認されました。享年61歳でした。拡張型心筋症と闘った2年間でした。

それから、面談室のような小さな部屋に行き、長らく担当してくださっている主治医の先生から改めて説明を受けました。心臓病がベースにあって、そこから多臓器不全につながったことや、色々と手を尽くしたが、結局は助けられなかったことを詫びてくれました。僕たちの目を真剣に見ながら説明してくれて、とても優しい先生でした。

合わせて主治医の先生から、実はお願いしたいことがある、と言われました。病理解剖です。大学附属病院というのもあり、父の遺体を解剖して、身体の状態が、最後どうなっているのかを、詳しく見させて欲しいというのです。すべての臓器を取り出して、顕微鏡などで分析・研究して、それが今後の医療の発展につながるということでした。僕と母と弟はお願いします、と言いました。今までずっと病院の先生方にお世話になってきていましたし、なにより、父と同じような病気で苦しんでいる人を助けることに繋がるのならば、それはとても喜ばしいことです。拡張型心筋症は、2019年現在不治の病ですが、いつかこの病気が完治できるようになることを願って、そこで闘っている人たちの助けになるのならば、僕も母も弟も、断る理由がありませんでした。病理解剖された後は、きちんと復元されて、それから葬儀社に搬送するということです。

これで父の病気に関することは一段落….としたいのですが、実はまだやることがあります。それはお墓の移動です。父の実家のお墓は千葉にあるのですが、僕たちが住んでいる宮城県から遠いということもあって、更には父の父(つまりは爺ちゃん)も年齢が90近いので、お墓を宮城県に移そうという話になっているのです。とりあえずは葬儀関係のやることが全て終わってから、ということになるのですが、そういった手続きを通じて学んだこと・感じたことを、僕自身の気持ちの整理のためにも、ブログとしてもう少しだけ書いていくことにします。